プロフィール

どうも初めまして。NEET支援&雇用-NSandEA(Neet Support and Empolyment Agency)の代表、Kです

今は個人事業(freelance)で引きこもり支援の活動を地元でしています。

私自身、引きこもり経験あります。

現在36歳既婚、子供二人の父親です。

まず簡単な生い立ちみたいなのを

私が3歳の時に両親は離婚。私は父方の祖母と祖父のもとでスパルタ教育で育てられます。弟は母と一緒です

小学校の頃は運動部で部活しながら絵を描くことが好きでした。活発で、からかわれるとすぐ手が出る子供でした

中学2年の時にエスカレートしていくイジメで不登校

離婚した叔父が酒を飲んでDV。

殺されかけたことも

居場所がなくなり母のもとへ身を寄せる。

フリースクールに通うことに

母再婚するため、今度は父の付き合ってた人のもとに。そこでは家庭内DVが行われていた

結局元の祖母のもとに戻り定時制高校へ行きながらバイトをする

この頃から離れで一人で住む

中退し仕事関係で騙されたり詐欺だったり反社が絡んでいたりと散々な目にあう

フリースクール時代から6年付き合ってた人と結婚の約束をするも浮気され別れる

だんだん鬱になり引きこもりになる

自殺を試みるが未遂に終わる

悪友に誘われ外出時に今のお嫁さんと出会う

お嫁さん関係で我慢に限界が来たため、これを機に悪友と完全に縁を切る

前向きに生きようと心療内科や精神内科、精神病院や保健所にも行ったが

実情に愕然とする。そして自分の鬱はもう治らない、一生向き合っていくしかないと悟る

仕事も上手くいかず、誰からのサポートも受けられないため冷静な判断が出来ず最初の子供を堕胎する

2人目が出来た時に意地でも産むと決め、不安定ながらも掛け持ちで仕事をする

3人目が産まれる。(1人目は堕ろしているので、実際2人目)

介護の仕事を3年続けた後、

思い立って辞める

この事業を始める


ここからは詳細。長いです。

3歳の時に両親が離婚、母は弟を連れて家を出たので父方の祖母と祖父に育てられました。(父は単身赴任でした)

1分でも帰宅時間を過ぎると30分ほど外に出され、すりこ木の棒で叩かれてから家に入る許可を出されたり、塾に通信教育をしながら育ったので保育園を出るころには掛け算や割り算が出来る状態でした。いわゆるスパルタですね。中学の頃になると離婚した叔父が家に帰ってきてお酒を飲み暴力や暴言に見舞われました。正直死ぬかと思ったこともあります。具体的には首を絞め上げられたりですね。帰ってくるバイクの音が聞こえたらすぐに電気を消して寝たフリしてました。

小学校の頃はからかわれることが多かったのですが、それを許さずすぐに手が出る子供でした。栄養失調と脱水症状を一緒に併発して病院で足腰が立たずに点滴したこともあります。検尿を若いナースにやってもらうのが相当恥ずかしかったです(笑)

話しを戻して、そんな学校での日々と家での晴れない日々に嫌気がさし、中学2年の頃には暴力が嫌いになりました。ほぼやり返さない状態でしたのでいじめのようなものが日々続き、それに加わる人数も増えて居場所がどこにもありませんでした。完全に私を標的としたイジメです

なぜそうなったのかは私自身今でも分かりません。すべてに嫌気がさしてたのでスカした自分が気に入らなかったのか、小学校からずっとイジメられてた女の子を庇ったからなのか・・。後者なら良かったなと感じます

まだ自分を誇れるから。唯一、私の人生であの瞬間が私を誇れる瞬間だったからです。

自己満足です

全てが敵に感じました。担任の先生に相談したのですが、私はあくまで、こんなに悩んで苦しんでいると知ってくれている誰かが居る事だけで良かったのですが、新任の先生という事もあり、内緒にしておいて欲しいという言葉は流されてしまい、その日のうちにイジメは許さないとの思いをクラスのみんなに話してしまいました。先生には今も昔も恨む気持ちは全くありません。ただ、誰もイジメを止めない現実があるのにクラスに伝えても反感を逆に買い、私はもう学校に行くのを諦めました。保育園の時からからかわれる事を許さずすぐ手が出る自分で売られた喧嘩は買うみたいな所がありましたが、内外で暴力がつきまとい、もうそんな気力は皆無でした。

これはただの自慢ですが賞状は小中合わせて6枚程いただきました。ほとんどが銀賞で絵によるものです。ただし、狙った事は一度もなく時間足らずの未完成で納得した事は一度もなく、同時に褒められたことも無いので絵は大好きで大嫌いな感じでした。それしか無かったというのが正しいかも。

居場所に困った私は一度だけタクシーで行ったことのある記憶を頼りに母のもとに行きました

居住地を移していれば一発アウトだったのですが、無事会うことができました

(罰でお尻たたきされてる時におそらくカーレンジャーのエンディングが流れてたので今の年齢から考えて…えーと…まぁ、何才の時かなんてどうでもいいですね。かなり小さい時で、絶対に覚えておこうと道順を脳裏に焼き付けてました)

離婚した日から記憶だけは良くて、3歳からの記憶がわりと残っています

ショックだったのは弟は私の存在を知らなかった事です。

そこからはフリースクールに通うことになりました。自分を変えるチャンスだと思い、

そこでのリーダーとなって活動していました

が、残念ながら母が付き合ってた人は多少理不尽気味で威圧的で手が出る人だったので

相当嫌いでした。それまで暴力に嫌気がさしていたので、少し手が出るだけでも拒否感がありました

色んな事の積み合わせで荒れて弟に当たることも多くなりました

同じころ、フリースクールで出来た彼女の存在に救われ自分の人生に光が差しました

その人のおかげで今の自分に気づいて弟に手を出すことは皆無になり、弟も受け入れてくれました

しかし、母と同居人が結婚すると知り私は家を出ることになりました

私の小さなころからの秘かな夢は、母と父と弟と私で4人で幸せになる事でしたが、

叶わぬ夢だったのだと酷く落胆しました(今なら到底無理だと理解できますが子供だったので)

そこから身を寄せたのは父が付き合っていた人のところでした

そこでは母のところ以上のショックを受けることになりました。

そこでは長女、長男、次男がいて、長女が同い年くらいで長男は4歳くらい下だったと思います。お昼に仲良くみんなでウノとかGAMEを楽しくしました。兄弟が増えたような感覚でこの先ちょっとワクワクしてました

が、夜になるとこの雰囲気が180度変わります。母、長男次男の3人で長女に暴行を始めました。あまりにショックを受けてそれを止めようと考えましたが、そこしか今自分が居れる場所が無く私はただトイレに入って泣いてました。ここは個人的に滅茶苦茶後悔です…。お昼の段階で長女にアザが多いなと思っていたのですが、そういう事でした。

何ヶ月かそこで過ごしました。

でもどうしても耐えられなくて私は父に相談したのですが、「他人のお前が他所の家庭に首を突っ込むな」と言われ、父と2人で住む

事になったのですがそれは言葉のみで私はタクシーで元の祖母の所に戻されました。

しかしこの頃から私はタガがはずれてきてて、怒りの感情が迸っていました。叔父に対しても臆する事はなくなり毎日音楽をかけて歌い叔父を追い出し怒りと殺意に満ちていました。

しばらくして私は離れに一人で住み始めます。そこから高校に通いながらバイトをしたりしていました。

高校時代、友達だと思っていた人間から「いつ友達になったん?」と言われ、周りからも笑われ、私は中退している経験があります。

それから後に会った時に、その友達は酷く後悔していたのが伝わりました。ただの悪ふざけの延長線だった様ですが、中学時代の事があり私には耐えられませんでした。

その友達を今は悪く思ってないです全く。


フリースクール時代からの彼女と一緒の時は優しい自分でいられて、そうでない時は悪い友達と悪さばかりしていました。自分の中の渦巻く感情をそれで制御した感じです。
そしてある出来事で警察のお世話になった時に現状の自分と対峙して、なりたくない、忌み嫌う人間に自分自身がなっていたと気付いたのです。この事で私は2回間違いを起こしました。1つは弟に当っていた自分。2つ目は悪の道に突っ込んでいた自分。2つの経験から私は自分を俯瞰で見るようになれました。親友も彼女も私を受け入れてくれましたが、それは辛かったです。許してくれたのでは無く、戒めてくれているんだなと感じました。こんな良い人達を全て無くすかもしれないとしてもやりたい事は悪だったのかと自分が情けなく、昔ワルだったなんて、私からすればただの恥であり、全く誇れる事などありません。ただのクズです。

その時から自分を戒め続けていて、これからもそれは変わらないです。

しかし、藁をもすがる人には悪は否が応でもつきまとい、仕事で騙されて脅されたり、父と始めるハズだった仕事がなくなってしまったり、上手く行かずに苦しかった所に彼女から別れを切り出されて別れました。

オンラインゲームで出会った人と浮気していたみたいです。私はネットの出会いに心底嫌気がさしました。それからも仕事に反社が絡んでいてヤバそうなのを抜け出したりと散々で私は鬱と同時に引きこもりになり、そこから6年が過ぎました。隣の家に元ヤクザの人が住んでいて、離婚で揉めたのかバスルームから痛い痛いと嫁さんの声が聞こえていました。私は精神的にいつ死んでも良かったので音楽をかけて歌って、ゲームして映画見ての日々。ただそれだけでした。隣が何か言ってきたら同士討ちになっても良いと、かなり病んでました。ただし私は夜7時には音楽も歌も止めてました。無駄に変な律儀さが出ていました。この時の経験から分かるのは、好きなものを好きなだけやってたら好きなものを嫌いにもなっていくという事です。好きの意味を見失う。普通に嫌な仕事して帰って好きな事をする。嫌いよりの事を挟む事で好きなものを見失う事なく好きでいられる。好きなものを嫌いになっていく事はすごく悲しい事なのだと彼女の事や絵の事、引きこもりの体験から理解出来ました。

あと、単純に近所迷惑な人間でした。


引きこもり時代は祖母が毎日1食持ってきてくれていました。正直食もどうでも良くなっていて食べない日や外の野良猫に上げることもありました。下痢や便秘を繰り返し、

ちょっと肥ってるな…痩せないと…

と、いつも思ってました。実際には40kgも無かったのですが…

不意に死のうと思いカミソリでリストカットしました。その時に気持ちは全く無く、ただ普通の日常のように自殺未遂をしました。未遂に終わりましたが気持ちは本物でスパッと切った時に骨の異様な白さに少し驚き、しかしすぐに気持ちは切り替わりました。あぁ、これで全て終わる。無に消えたい。そこから1時間程横になっていましたが痺れがあるくらいでなかなか死ねない。今回は諦めようと祖母の所に行き、病院に行って縫ってもらいました。翌日血だらけの布団は捨てました。結構な出血はあった様です。ただし、このリストカット。

これで生き延びた故に余計に甘えと捉えられ、弟からも「そんな所切っても死なない」

と笑われる始末。知識が足りてなかったらしく、横にスパッと切れば普通に死ぬと思ってたので逆に恥さらしになってしまいました。

父からも「逃げることばかり覚えてしまった」と手紙を送られ、私は、失望しかありませんでした。何も目的がなく、何も喜びがなく、何も意味が無い。生きながら死んでました。引きこもり時代は言葉にならない。


それからは悪友がしばしば家に来てました。(この人物は弟を小学校時代にイジメていて、和解して弟と友達になっていた人間で、友達がいなくなるのが嫌で不動産屋の息子とずっと言ってきましたが、大人になってから実はヤクザの息子だったとカミングアウトしました。)
私はヤクザの息子だとかどうこうより、単純に人の痛みを理解できない奴で人を駒にしか思ってない奴だと思っていたので、昔からの知り合いで無ければお前とは付き合っていない。親友と呼べる人間は2人居るが、お前とは親友にはなれない。と、本人に実際に言ってます。
で、何回か半強制的に夜にドライブに行く事が多くなり、その時に知り合った女の人が今のお嫁さんです。
馴れ初めを話しても何故か信じてもらえないのですが、お嫁さんは初めから私を好きでいてくれたみたいなのですが私はもう疲れていて恋愛とかどうでも良くなってました。
が、カラオケに行った時に悪友とお嫁さんの親友が寝て私とお嫁さんだけの状態になった時に私は引き込まれてしまいました。
普通二人きりになって好きな人がいる状態でみなさんならどのような曲を相手の男性に向けて歌いますか?
基本的に思い切ってラブソングか、得意な曲を歌ったり、関係なく自分が歌いたい歌を歌いますかね…
お嫁さんが歌ったのはCoccoの「強く儚い者たち」と「遺書」でした。
かなりの衝撃を受けて、私は打ちのめされてしまいました。私は一気にお嫁さんの事が最優先で気になる存在になってしまいました。

しかし私は鬱で引きこもり。仕事をしていないし情緒が不安定で、本音はハッキリ言う。
お互いのメールのやり取りでもかなりキツイ事を書いたと思います。全て受け止めてもらい、それでもなお私を必要としてくれる。私が幸せにしたいとまで。
しかし悪友が裏でお嫁さんに対し私を下げて(お金の貸し借りの嘘話など)自分を上げて、かすめ取ろうとしていて、お嫁さんが泣きながら家に来た事で私は悪友と一生の縁を切りました。思えば私のことを気になるって言ってくれてた女の子は悪友を通してだと今までに2人居たのですが、適当な嘘をつかれて駄目になった事にされてたので、裏でこういう事をやっていたんだなと気付きました。
中には京都に仕事で行く際に一緒に付いていくとまで言っていた子もいました。
悪友は私と親友になりたがっていた人間なので、いくらヤクザの息子でも私に対してそのような事をするとは思ってなかったです。
それから私とお嫁さんは今治で同棲生活を5年程しました。しかし叔父時代からの音に敏感なのがここにきてネックになりました。賃貸なので隣の住人の音の大きさ、上の住人の五月蝿さにイライラして望むような平穏にならずにストレスが溜まっていました。それに加えて心療内科医に対する不審、抗鬱薬に対する不審、仕事が長続きしないストレス。
将来に対するストレス。
将来に対するストレスですが、私はこの様な人間である事から結婚も子供も全く考えていませんでした。付き合う前からそうでした。
しかし女の人は最初は男に合わせるもので、忍ばせてた思いはどこかで噴出するのでしょうか、お嫁さんもそれに例外ではなく、子供も結婚も求めるようになりました。
何も上手く行ってないのにそこまでの将来はとても考えられずにいました。合わせて私は昔の喧嘩などから睾丸が1つ潰れているなど身体的な不安要素もあり、余計に将来を悲観していました。そんな中、最初の子供を妊娠します。私の生殖機能は無事だったという事、戸惑いはあってもやはり好きなお嫁さんとの子供である事から嬉しかったです。二人でに名前を決めて、殴られるのを承知でお嫁さんの実家に報告に行きました。私の方は離婚していて母には家庭があり、父は単身赴任なので頼れる人は居ませんでした。
当然の如くお嫁さんのお母さんは怒りを抑えきれず、お父さんの方はしきりに結婚を気にされていました。私としては命最優先で考えて欲しかったのですがそうはいかず、お嫁さんと産まれていない子供の事を散々に言われて、誰からのサポートも受けられないのでは無理かもしれないと、最初の子供を堕ろしました。とても未来志向になれずに二人だけでやっていくのは無理なんじゃないかとネガティブが止まらずに堕胎です。しばらくして後悔と共にあの日あの時の自分を含む全員が許せない怒りが湧いてきました。何も殺さなくても道はあったんじゃないのか…
それからその思いを残したまま日々は過ぎ、私は決心しました。2人目の妊娠です。この時には1回目とは既に覚悟が違いました。
何が何でも産む。彼女の両親なんかどうでも良い、2人で頑張ればどうにかなる。どうにかならなくなってもこの子の命の受け入れ先は必ずある。無事出産しました。
しかし、絶望してしまいました。お医者さんや助産師さんの手前、私は表向き嬉しそうにしていましたが…何の感情も無かったのです
私には感動も嬉しさも愛情も何も無かった。
「ヤバい。何の思いもない。」お嫁さんに伝えました。本当に恐ろしかったのはコレでした。親友にもお嫁さんにも前々から言ってたこと、私は子供を愛せないかもしれない。望んでないし1人愛する人がいたら他の誰かはどうでも良くなる。子供が好きでも無いし私は作るべきじゃないかもしれない。
しかし、周りの意見はポジティブで、実際に見たらそんな不安は吹き飛ぶ。良いパパになる。娘だったら溺愛する。等でした。
実際にはそうはならなかった、まるで無関心なこの時の私の疎外感。そしてお嫁さんの母親に言われた言葉の1つ、バカとバカの子供なんて幸せにならない、可哀想。ろくな人間にならない。
2人で松山に引っ越し(私はもともと松山出身の松山育ちです)私は不安定ながらも、かけもちで仕事をして、怒った時は少々苛烈ですが(口が悪くなる)家事も分担し、普通にやって行けてました。ただ、2人目は1人目が産まれた状況と何も変わらない状況で産まれた子供。で、あればお嫁さんの両親がもしこの子を可愛がるような事であれば私は許さないと言いました。そんな事であれば1人目が死ぬ理由なんて無かった。もし2人目が可愛がられる様な事があれば、それは1人目だった筈だと。死ぬ必要なんて無かった事になる。
でもやはり産まれてきた孫は可愛く、お嫁さんの両親は2人目を可愛がりました。それがどうしてもやるせなくて、私だけはあの日あの時の全員を絶対に許さないでいよう、忘れないでいようと自分に誓いました。
しばらくして介護の仕事に就くようになり、3人目も産まれ(正しくは2人目)
介護の仕事を続けた後に当初から思っていた引きこもりや鬱の人を助けたい気持ちの中で、その人達を蔑ろにする詐欺をやってるニュースを見て思い立って辞めて、この事業をしようと思った次第です。

後は、このホームページのブログの所に私の考え方等を載せています。

ブログと言うかメモ書きみたいなものですね

本当はもっと負の部分は多分にあるのですが主要な所だけ載せました。

ここ迄読んで下さりありがとうございます

お疲れ様でした!